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大阪地方裁判所 昭和36年(わ)2852号 判決 1962年12月24日

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件公訴事実の要旨

被告人は大阪市南区道頓堀附近の盛り場を根城に勢威を張る奥島組の組長であるが、昭和三六年五月二四日同組員宇野健一が、かねて反目している山木会会員多数から殴打された上、同会事務所に拉致監禁されたことに端を発し、同会との間に紛争を生じたことを知るや仕返しのため、同組副組長格田中幸作等と共謀の上、同月二五日奥島組事務所等に集結していた組員のうち準幹部中西稔外五名をして猟銃を用い同市浪速区新川三丁目六五五番地山木会事務所を襲撃させ、同会員を殺害せんことを企て、前同日午後八時頃被告人等の指揮により右中西外五名が猟銃三挺を携行して、右山木会事務所に行き、同所に集結していた山木会々員ならびに同会の支援団体井上会員等十数名に向けて猟銃四発を発射し、その散弾約二八個を右井上会員志村敏雄の右腕部に命中させたが、同人に加療六十日の右上腕部貫通性射創及び上腕三頭筋挫断の傷害を負わせたに止まり殺害するに至らなかつたものである。

第二、当裁判所の判断

一、浜田光憲、一入秀行、金泰亨(昭和三六年七月一九日付)、田中幸作(同年六月一九日付)の各検察官に対する供述調書、志村敏雄の司法警察職員に対する供述調書、森亮介作成の診断書等を綜合すれば、

被告人が大阪市南区西櫓町一四番地に事務所をおき債権取立等を業として世人から暴力団と目されている「奥島組」の組長であること、昭和三六年五月二四日深夜同組員宇野健一が本多会久保組分家の暴力団「山木会」の会員多数から些細なことに因縁をつけて暴行を加えられた上、同市浪速区新川三丁目六五五番地の山木会事務所に拉致監禁されて更に暴行をうけたこと、翌二五日午後前記奥島組事務所及びその周辺において同組準幹部組員一入秀行、中西稔、浜田光憲、村山正次、藤田勝昭及び市沢勇次郎の六名はこのままでは奥島組の名もすたるとして報復のため山木会事務所に殴り込みをかけ、同会々員に向けて猟銃を発砲すべき旨を謀議し、このため同会々員を殺害するに至つてもやむをえないと考えその殺害を共謀し、更に同組幹部金泰亨、田中幸作等にはかつて同人等とも共謀を遂げたこと、かくて同日午後八時頃上記一入秀行等六名は自動車二台に分乗し猟銃三挺を携えて前記山木会事務所に赴き、同人等において自動車から同所附近路上にいた山木会の支援団体井上会会員志村敏雄に向け猟銃三発を発射し、その散弾数十個を同人の右腕部に命中させたが、同人に治療約一月を要する右上肢盲管銃創及び橈骨神経麻痺等の傷害を負わせたに止まり同人を殺害するに至らなかつたことをそれぞれ認めることができる。

そこで残る問題は被告人が右犯行に関与し、公訴事実記載のように田中幸作等と共謀し、あるいは実行に加わつた一入、中西等を指揮したものと認められるか否かの点にある。

二、弁護人は当初検察官提出の供述調書一切を証拠とすることに同意したものであるところ、その後右調書のうち前記争点に関し重要な内容を含むとみられる若干のものについて、その証拠能力を疑わせる如き証拠が提出されているので、まずこの点について判断する。

(1)  被告人の司法警察職員に対する昭和三六年七月二二日付及び同月二四日付各供述調書。

当公判廷における被告人の供述、証人谷奥隆次(第一回)、同植垣幸雄の各証言、右植垣作成のメモの記載を綜合すると、

被告人は本件につき昭和三六年七月一三日犯行否認のまま殺人未遂の罪名で起訴されたが、起訴後も約一週間にわたり住吉署において司法警察職員から本件公訴事実の取調を受けたこと、その際当該司法警察職員は、否認しても情況証拠が被告人に不利であること等を説いて自白を勧める一方、もし被告人が真実を語る場合は捜査係長を通じて担当検事に再度の取調を依頼してやる旨を述べ、更に被告人をして、兇器準備集合の事実だけでも認める供述をすれば恐らく検察官が殺人未遂の訴因を兇器準備集合の訴因に変更してくれるし、もしそうなれば処罰も罰金程度ですむという期待をもたせるようななんらかの発言をしたこと、被告人は右の発言を兇器準備集合に訴因を変更してもらつてやる旨の約束と解してこれに強い期待を抱き、間もなく一部供述を変更した結果兇器準備集合の共犯を認める趣旨の七月二二日及び二四日付各供述調書が作成されたこと、しかし種々の事情から検事の再取調は実現せず訴因の変更も行われなかつたことが認められる。

以上の事実に徴すると右供述調書記載の供述は起訴後に訴因変更の約束のもとでなされた供述(承認)の疑があり、少なくとも被告人が訴因変更による利益をうけられるものと信じてなした供述である疑があつて、任意性及び刑訴法三二六条にいう相当性の要件を欠きこれを証拠となしえないものといわなければならない。

(2)  田中幸作の司法警察職員に対する昭和三六年七月六日、同月七日付、検察官に対する同月七日付各供述調書。

当公判廷における相被告人田中幸作の供述、証人谷奥隆次(第二回)、同西尾呉郎の各証言ならびに西尾呉郎作成の診断書の記載等を綜合すれば、奥島組幹部田中幸作は本件につき同年五月三〇日逮捕、ついて田辺署に勾留され、同年六月二〇日殺人未遂の罪名で起訴されたが、同人は現に幹部格とはいえその前年すなわち四十才を過ぎた年になつて奥島組長の招きで同組に入り、初めてやくざの世界を知つた者で、過去に犯歴も逮捕の経験も持たず、五月末の逮捕当時から既に健康がすぐれなかつた上に以後の拘禁と六月二九日まで殆んど連日の取調によつてかなりの肉体的打撃をうけていたこと、同人は六月三〇日に至つて発熱し、警察医の診察をうけ粉薬を与えられたが、翌七月一日にも熱はひかなかつたため附近の中野病院に連れて行かれ診察をうけたところ、カルテによれば「疑膜性扁桃腺炎、熱発三九度、激しい咽喉痛を訴え咽頭、扁桃腺に白斑付着す。クロロマイセチン錠投与、ペニシリン及びブドウ糖、他の栄養剤注射施行」とあつてかなり激しい症状であつたこと、しかし翌日は診療をうけず、一日おいた三日に再び連れられて同病院へ行きクロマイ、ペニシリン、栄養剤注射をうけたこと(当日のカルテには咽頭部になお白斑がある旨の記載があり、体温の記載はないが症状や注射からみてまだ熱はかなり残つていたと考えられる。)、同月四日病状はやや快方に向つたので、翌五日取調担当司法警察職員は田中の取調を再開し、午前一一時から午後三時頃まで同人を取調べたがこの日は調書は作成しなかつたこと、六日朝田中は三たび連れられて中野病院へ行きペニシリン注射をうけ「白斑が多少あるが、やや軽快す」と診断されたこと(カルテにはやはり熱の記載はないが、他の証拠からみてかなり下つたもののなお発熱が続いていたものと考えられる。)、そこで担当司法警察職員は田中を田辺署に連れ帰るとともに、同日午前一〇時頃から午後八時ないし九時頃まで同人を取調べた結果、従来の供述のうち殊に被告人奥島に関係する部分を変更する内容の詳細な同日付供述調書を作成し、更に翌七日にも事件後の行動に関するかなり長い供述調書を作成したこと、同日右田中は大阪地方検察庁において担当検事の取調をうけ右各警察調書と同趣旨の同日付検察官に対する供述調書が作成されたが、右検事の取調中前記担当司法警察職員が同室していたことをそれぞれ認めることができる。

以上の経過にてらすと、右各供述調書は病後の回復も十分でなく、なお微熱も残り、数日来の発熱と嚥下痛のための食物摂取の不自由等によつて著しく体力を消耗していたと考えられる田中幸作を長時間にわたつて取調べた結果作成されたものと認められ、この点において任意性に疑があるといわなければならない。もつとも七月四日午後同人が約四十分間弁護人と接見した事実は前記谷奥証言から認められるけれども、右事実だけでは未だ前記の疑を解消せしめるにたりない。蓋し数十分にわたつて弁護人と面談できる程度に回復していたからといつて、それよりはるかに長時間にわたる捜査官の鋭い追求に堪え得る体力があつたとはいえないからである。

しかも三以下に述べるところから明らかなように右供述調書の内容には合理性を欠く部分が少なくなく、証明力の問題としても十分の信頼を措くことができない。のみならずこれらの供述調書は田中に対する起訴がなされた後に同人を取調べているものである。もつともその主目的は共犯者とせられる奥島組長に対する証拠を得るにあつたと考えられるが、それは田中に対する公訴事実と不可分であるといわなければならない。起訴後作成された被告人の捜査官に対する供述調書の証拠能力を認めた最高裁判所昭和三六年一一月二一日判決といえども、起訴後においては被告人の当事者たる地位にかんがみ捜査官が当該公訴事実について被告人を取調べることはなるべく避けなければならない旨を明言している。しかるに本件では起訴後しかも上記のような状況下において田中幸作を被疑者として取調べ、「被疑者調書」を作成していることは、捜査官にこの点の慎重さが乏しかつたことを示すものである。

結局田中幸作の前掲各供述調書は任意性に疑があり刑訴法三二六条に定める相当性の要件を欠くものと認められるからこれを証拠に採用しない。

(3)  長江昭太郎の各供述調書。

第一六回公判調書中証人長江昭太郎の証言記載ならびに当公判廷における証人安岡慶次郎の証言によると、長江昭太郎は本件につき殺人未遂幇助容疑で昭和三六年六月二七日逮捕、ついで勾留され司法警察職員の取調をうけた者であるが、その間七月上旬頃担当司法警察職員は、既に録取されていた右長江の供述調書の一部又はその数通を同人の眼前で破棄したことがあり、その際の状況から長江は取調、従つてまた身柄の拘束が更に長く続くかもしれないとの不安と威圧を感じたことがうかがわれる。右事実は未だ同人のその後の供述調書全部の任意性を疑わせる程のものとは認められないけれども、その証明力の判断にあたつては留意すべき事情であるとみるのが相当である。

(4)  当裁判所はこの種の事案における証拠収集の困難と捜査官の辛苦を推察できないではない。しかし各証拠を仔細に検討し客観的に観察すると本件の捜査にはやはり行過ぎがありそれは上述のとおり調書の証拠能力を失わせあるいはその証明力を減殺する程度に達しているものと考えられるのである。

三、そこで前記二、(1)(2)の各供述調書を除いたそれ以外の証拠によつて、被告人が本件殺人未遂の犯行を共謀ないし指揮したことを認定できるかどうかを検討するに、直接証拠は存しないが被告人に不利とみられる情況証拠は少なからず存在するので、まずこれについて考えてみなければならない(もつとも被告人が積極的に「指揮」したことを認むべき証拠のないことは明らかであるから以下「共謀」の成否について論ずる)。

(1)  被告人及び相被告人田中幸作、同浜田光憲の当公廷における供述と各供述調書(上記排除したものを除く)、長江昭太郎の各供述調書、長江慎一の警察調書等を綜合すると被告人の当日の行動のうちほぼ動かし難いものとして大要次の事実が認められる。

被告人は昭和三六年五月二五日朝一〇時頃起き、間もなく大阪市浪速区元町一丁目七六三番地金融業者西川清方に行き同人等と花札をしていたところ、正午頃事務所の浜田光憲、一入秀行から電話があり前夜の紛争を知つたが、この時被告人は「もめてばかりいて仕様のない奴や」等といつて浜田等を叱りつけた。そして午後二時頃西川方を辞し同市南区難波新地二番丁所在の喫茶店「ロン」に行つて知人小林一郎こと許万根と会い、更に午後三時半頃金融業者長江昭太郎を電話で同所に呼び寄せ、右小林の所持する手形の調査を依頼するとともにかねて購入のあつせんを依頼しておいた猟銃を買つて来てくれといつて金四万円を渡した。そこで長江昭太郎は同市天王寺区上本町六丁目にある銃砲店正起商会へ行き二連銃一挺を求めて「ロン」に戻つたところ、被告人はその場でこれを組立てて調子を見ていたが、弾をこめる所が固過ぎるから取替えてくれといい出した。その頃長江から被告人の居所を聞いた田中幸作がやつて来て、やがて被告人は田中と共に長江の運転する自家用車で正起商会に行き、同店で長江が銃を取替える間に田中と別れ、長江からあらためて水平二連銃を受取り、そこから更に同市南区大和町一八番地大阪芸能プロこと白神一朝の事務所に行き、その際長江昭太郎に依頼して午後五時頃実弾五、六発を同所に届けてもらつた。間もなく被告人は同所で白神一朝等と花札をはじめたが、そのうち奥島組事務所にいた田中を電話で呼び寄せ、同人に前記猟銃及び実弾を托した。この銃と実弾は田中から一入秀行の手に渡り上記山木会に対する襲撃に使用された。

(2)  以上の外形的事実殊に猟銃授受の事実は、既にそれだけでも被告人にとつて甚だ不利な事実であることは否定できないところであるが、以下これらの事実を他の証拠(上記排除した供述調書を除く)と綜合して被告人の共謀の事実を推認することができるか否かについて検討する。この点につき被告人は、当日銃を用意したのは翌二六日朝小林一郎及びその知合いのタクシー会社々長とクレー射撃に出かけるために、かねて依頼してあつた長江を通じて購入したものであり、これを田中に渡したのは持ち帰らせて銃砲所持の許可手続をさせるためであつたが、自分の意思に反して殴り込みに使用されたものである旨弁解する。

各証拠を検討すると右弁解が全面的に立証されたとは認め難く、相被告人の供述とのくいちがいも存在するけれども、他面次のような諸事実に徴すると、必ずしも前記弁解を理由なしとして排斥することができない。

(イ) 被告人及ど長江昭太郎の各供述調書、第一六回公判調書中証人長江昭太郎の記載等によると、被告人が既に本件と関係なく狩猟もしまはクレー射撃のため猟銃の購入をその方面に詳しい長江昭太郎に依頼していたこと、事件前日の五月二四日にもクレー射撃に行くからいい銃をほしい旨の電話を長江にかけていることがほぼ推認される。もつとも最初に右の依頼をした時期は明確でなく、また長江がこれに基づき予め正起屋に注文したかどうか、その時期等については、長江の供述と証人樋口彦信の供述との間にくいちがいがあつていずれとも断定できないけれども、長江の七月一四日付(第二回)警察調書第二項記載のごとき事実にてらすと、ちようど同じ昭和三五年暮頃被告人が銃の購入を依頼して来た旨の長江証言も首肯できなくはないし、また長江が本件当日正起屋へ行つたとき、注文しておいた川口製が未着のためSKBに変更した旨の七月七日付(第二回)警察調書第三項記載の供述も、具体的で一がいに信用できないとは言えない。殊に長江調書中五月二四日の電話の件についての供述は甚だ詳細であるとともに必ずしも被告人にとつて有利ではない(もつと髙い銃をほしい旨語つたとすれば翌日安い銃を購入したことと一応矛盾する)から、これが被告人と長江の打合せに基づく虚構の事実とは考えられないのである。

(ロ) 被告人の各供述調書、前記長江証言記載、第二五回公判調書中証人小林一郎こと許万根の証言記載、証人小倉真砂子の証言、ならびに当裁判所の検証調書によれば、本件当日被告人は人目の多い白昼の喫茶店内で公然と長江の買つて来てくれた猟銃を点検したりかまえてみたりした上、これを不満として更に取替を依頼していることが明らかであつて、右事実は被告人が銃を入手した目的がクレー射撃に用いるにあつたとみなければ説明することが困難である。

(ハ) 被告人の各供述調書と前記小林証言記載ならびに証人権田秀行の証言によれば、小林一郎は五月二四日もしくは翌二五日に権田宅に電話したが同人が留守中のため、クレー射撃に連れて行つてくれるよう家人に伝言したことがうかがわれる。ところで右小林証人及び被告人は、当公判廷で二六日の朝九時から一緒に出かける約束であつたと供述するが前記権田証言等と比照してみるとそのような明確な約束があつたことを肯認するにたりない。ここに注意すべきは、被告人は捜査段階の供述調書においては、右のようなはつきりした日時の約束までできていたとは供述しておらず、検察官調書と七月一日付警察調書では、「前夜小林に会つた時たまたまクレー射撃の話が出て、同人の知合で射撃の好きなタクシー会社社長を紹介しようということになつた」旨を述べているにすぎない。もつとも七月四日付警察調書では二五日「ロン」で小林に会つたとき「明日は間違いなく行く」ことを約した旨の供述が突如現われているが、その時刻等の供述記載は存しない。

従つて、被告人と小林との間には明確な日時の約束まではなく、ただ明日行こうという程度の話があつたに過ぎないのが真相であると認められる。(この点を重視すれば被告人が五月二五日夕刻田中幸作に銃を託し、その保管場所を特に指示しなかつたかにみえる点も必ずしも検察官のいうように前記弁解と矛盾するものではないともいえる。)そうだとすれば、被告人が本件猟銃を購入したのはクレー射撃のためであることが、直ちにそれだけで被告人の上記共謀の事実を否定することにはならず、更に右銃が田中に交付された事情を検討しなければならないとしても、少くとも被告人が本件猟銃を購入したのは山木会との紛争に使用するためではなく、クレー射撃のためであつたことは明らかであるといわなければならない。

(3)  その他浜田光憲の検察官調書には当日同人が被告人に電話した際私一人でも鉄砲玉を連れて殴り込むつもりですと話した旨の供述記載があるけれども、他の証拠にてらして必ずしも信用することができないのみならず、浜田が被告人との通話の際かような申出をなしたとしても被告人はこれを強く叱責しているのであつて、右事実だけから被告人が本件共謀に加わり、又は本件殴りこみを予見していたものと推認することはできない。

また田中幸作の検察官調書(六月一九日付)及びその前後の警察調書には当日長江方で偶然被告人と会い、殴り込みについても承認を得たという趣旨の供述があるが、他の証拠に比照してその事実のなかつたことは明らかである。

また長江昭太郎の各供述調書中には、右「ロン」及び「正起屋」に至る車中で田中幸作と被告人が種々対策を謀議したことを推認させる如き記載があるが、右三、(2)(ロ)に掲記した証拠を綜合し、更に前記二、(3)の事情等を考え合わせるとたやすく右長江調書を信用することができない。また田中幸作が「正起屋」で被告人と別れ事務所に帰つた後、附近の喫茶店「マズルカ」に大幹部金泰亨等を呼び殴り込みの実行を思い止まらせようとしていることからみてもすくなくともこの段階では田中と被告人の間に殴り込みの共謀はなかつたと推認すべきである。

従つてもし被告人が殺人未遂を共謀したとすればその機会は白神方へ田中を呼んで銃を渡した時以外にはないわけであるが、猟銃の授受について被告人の前記弁解は必ずしも排斥できない。また被告人がこの時田中の求めにより白神一朝にアパートの借用を頼んでやつたことをうかがわせる証拠もなくはないが、被告人は否認し、竹内昭一の警察調書もこの点明確でないし、いずれにせよ決定的なものとは認められない。更に金、藤田等の供述調書には右白神から借りたアパートで田中が一入等に射撃方法を話していた旨の記載があるけれども長江の警察調書にみられるとおり田中は以前にも長江から猟銃を借りたことがあつて多少の知識は有していたと考えられるからこの事実だけでは必ずしも被告人奥島から教示を受けて来たものと推認はできない。その他全証拠を総合してもこの時被告人と田中幸作の間に本件殺人未遂の共謀が成立したことを確認するには不十分というべきである。

四、ところで本件各証拠を検討すれど、被告人にとつて有利な事実もまた多数見出すことができる。

(1)  本件は前示のように宇野健一が前夜山木会々員から苛烈な暴行を加えられたことに端を発し、その状況を目撃した浜田光憲と、翌日事務所で同人からこれを伝え聞いた一入、中西等が、「宇野はこれまでにも山木の者に数回やられたことがあるのに、今度は山木の事務所に連れ込まれて身動きもできぬ程袋叩きにされた。山木の連中はその上奥島をなめたようなたんかを切つた。これで悪かつたと謝まつてくるならともかく、何のあいさつもないのでは辛抱できない。宇野の仇を取つてやらなければ腹の虫がおさまらぬ。」等といつていきり立ち、殊に浜田、中西らの強硬分子は「幹部に話すとやらしてくれないかも知れぬから何もいわず自分たちだけで実行しよう。」と唱えたが、さすがに一入に押えられ、一応金泰亨等同事務所に居合せた幹部の耳に入れて承認を求めることになつたことが同人等の供述調書から認められる。右の経過やその他の証拠からうかがわれる当日の奥島組事務所の雰囲気は、組長たる被告人の意向を無視して殴り込みを実行することもあり得るような状況であつたと考えられ、例えば田中幸作が喫茶店「マズルカ」で金泰亨に殴り込みの再考を求めたが結局金も一入等の主張を押えきれずこれを承認するに至つた事情からもその時の空気を推察することができる。

(2)  被告人の各警察調書(上記排除したものを除く)、浜田光憲の六月二一日付警察調書その他の証拠を総合すると、被告人がいわゆる暴力団の親分としてはやや異色の存在であり、奥島組は主として債権取立を業としているため本来の意味の縄張りというものは持たず、従つて大阪南の盛り場で山木会々員等と奥島組々員が紛争を起したことは従来からあつたが、組全体としてのいわゆる縄張り争いというものはなかつたこと、被告人は平素から組員に暴力行為を戒め、紛争をもなるべく話合いで解決しようとする方針を取つて来たため組員の不満を呼ぶこともあつたことがそれぞれうかがわれる。特に阪口克次の七月二七日付警察調書によれば、被告人は昭和三六年五月二四日夜、ちようどその頃奥島組の本家筋の紹介で同組の分家となつた親栄会の会員阪口克次等を招いてすき焼を馳走したことがあつたが、その席上被告人は「うちの組は山口系統と本多系統とはうまくいつていないが他の組とはうまくいつているのや。お前ら南に遊びに来てもよいが本多系と山口系とはもめんようにして、絶対けんかをするな。」との訓戒を与えたことが認められ、右は偶然本件発生の前夜に被告人自身の口から語られた言葉である点に格別の注意を惹くものがあるばかりでなく、「山木会の属する本多会は奥島組の属する佐々木組とは比較にならない大きな勢力であり、これに対して到底銃の一挺や二挺持つてやれる相手ではない。」という被告人の当公判廷での供述を相当程度裏づけるにたりるものというべきである。

ところで本件の発端は前記のごとくであり、宇野の親しい同輩である一入、中西等の組員がこれに憤慨したのは当然としても、もとよりこの種の喧嘩は初めてのことではなく、宇野をよくは知らずまた日頃紛争に関して上述のような態度をとつて来た被告人が今にわかにこの喧嘩に乗り出し、同組々員等と殴り込みを共謀するだけの動機があつたことを肯認するにたりる証拠がない(宇野を本件まで知らなかつた旨の当公判廷における被告人の供述は同人の警察調書と比照して必ずしも信用できないが、奥島組の組員は宇野をも含めて殆んど幹部や準幹部が勝手に連れて来た者で、組長との親密な関係がなかつたことは確かである)。いわんや殴り込みによつてあえて山木会々員を殺害することを(未必的にせよ)共謀するまでの必要と動機が被告人にあつたとは容易に考えることができないのである。

(3)  本件の殴り込みに組長たる被告人が関与していたものとすれば、実行前後の被告人の行動は甚だ不用意で迂濶なものといわなければならない。前記「ロン」での状況もしかりであるが、殊に当公判廷における証人白神一朝の証言、第二二回公判調書中証人池田鉄男供述記載等によれば被告人は当日夕刻から前記大阪芸能プロ事務所で白神一朝等と花札をし、午後八時半頃池田鉄男等が殴り込みを報告に来た時にも被告人は依然同事務所一階の入口に近く屋外から見通せる所で花札に熱中していたが、報告を聞くや周章狼狽して二階に上り山木会側の報復を避けたことがうかがわれる。(もつとも右証人等の被告人との関係からすればその証言に十分の信を措くことはできないけれども、これを打消すだけの証拠はない)。

五、のみならず当裁判所は上記外形的事実から被告人の共謀ないし犯行予見を推認することについて検察官も被告人も当公判廷で主張していない他の解釈の可能性をも考えてみる必要があると考える。

すなわち被告人の七月二二日、同月二四日付各警察調書(任意性及び相当性を欠くことは前記のとおりであるが、有罪事実認定のためでなく被告人に有利な疑問の余地の有無を検討するために用いることは許されると解する)には、

自分は本当のことを申しても状況が悪く本当として取り上げてもらえないと思い今まで否認を続けて来たが、いろいろお調べしてもらつて私の真意もわかつてもらえると思つたので本当のことを申し上げる気になつた。実は当日、紛争のことを多少聞いて気になつていたので、午後五時頃白神方に田中を呼び寄せて様子をたずねたところ、同人は「皆いきり立つている。山木からまだあいさつがないのはこちらをなめているのではないか。話合えといつてもこのままにして向うから殴り込みをかけられたらどうしますか。」とくつてかかるようにいつた。私は向うから殴り込みに来るようなことはないと思つたが、かたわ同然の宇野を袋叩きにするような無茶な奴らだから万が一そんなこともないとはいいきれないと思い、「こちらから行くことは絶対いかんが、もし来たら黙つて殺される馬鹿はない。その時は仕方がないからやれ。殺されて白い着物を着るより青い着物を着る方がましやろ。」といつたものの、既に長江から銃二挺を借りていることも知らず、日頃事務所に何もないことがわかつているので、事務所を護るのに猟銃一挺ぐらいなければ心細いだろうと思つて二連銃を持つて行かせることにした。田中が何もいわないのでこちらから殴り込みに行くようなことは毛頭考えてもみなかつた。

旨の供述が記載されている。右の供述は、訴因変更による利益を期待して全くの虚構を語つたものにしては甚だ具体的かつ詳細であるばかりでなく、重松幹久の七月一八日付検察官調書中、山木会側も事務所に人を集めているから殴り込みをかける腹らしいとの情報も流れていたという趣旨の供述や、田中幸作の六月一九日付検察官調書及び前後の警察調書中、「自分は金泰亨(又は一入秀行)から、銃が二挺しかないので事務所を守る銃をもう一挺何とかしてほしいと頼まれていた。そこで長江方に行き、事務所を守るので相手が来ぬ限り使わないからといつて頼み同人から借りた。」旨の供述は前記被告人奥島の各供述調書に若干の手がかりと根拠を与えているように思われる。すなわち、田中幸作は一入あるいは金から銃一挺の入手を頼まれていたが、さきにもふれたとおり田中は生粋のやくざと異なり奥島組ではやや微妙な地位を占め、中堅組員たる一入等に十分な威令を行いうる立場にはなかつたから、組長たる被告人に余計な注進に及んだがために一入等の恨みを買うことを恐れる等の気持から、被告人に対して殴り込みの計画を打明けることができず、右奥島調書のような趣旨で被告人から受取つた銃と実弾を殴り込みの実行に流用したとする想定もあながち考えられないことではないというべきである。

六、以上のとおり本件では被告人に不利な証拠が少なくないがその中には十分信用できないものもあり、動かせない事実に対する被告人の弁解は必ずしも排斥できず、他面被告人にとつて有利な事実もあり、又当事者の主張しない第三の可能性も考えられ、これらを綜合すると被告人が殺人未遂の犯行を共謀したとの公訴事実並びに一入等の上記犯行を予見していたとの事実には合理的な疑をさしはさむ余地があるといわなければならない。

よつて刑訴法三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判長裁判官 網田覚一 裁判官 石松竹雄 楠本安雄)

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